「自分には才能がなかった」
夢や目標を諦めたとき、この言葉を使う人は少なくない。
成功した人を見ては、「あの人は才能があったから」と考える。逆に、自分がうまくいかなければ、「才能がなかったから仕方がない」と結論づける。
けれど、そもそも才能とは何だろう。
生まれつき備わった能力のこと?
もちろん、身体的な特徴には遺伝が関係している。足の速さや骨格、筋肉のつきやすさなど、競技によって有利になりやすい素質は確かに存在する。
一方で、才能はそれほど簡単に見抜けるものではない。
ピアノの才能がある子どもでも、ピアノに触れる機会がなければ、その才能は表に出ない。競技に向いた身体を持っていても、その競技と出会わなければ、本人すら自分の可能性に気づかないままだろう。
才能が花開くためには、環境や出会い、練習、継続が必要になる。
つまり、才能は生まれた瞬間に完成しているものではなく、何かを続けるなかで発見され、磨かれていくものなのかもしれない。
僕自身、ボディビルやライターという世界にもっと早く出会っていれば、「自分にはこんな才能があった」と思えただろうか。
おそらく、そうじゃない。
最初から特別に恵まれていたわけでも、能力があったわけでもない。ただ、興味を持って続けるなかで、少しずつ得意なことが見えてきた。それを周囲から評価されるようになり、初めて「これは自分の才能なのかもしれない」と感じるようになった。
この順番は、意外と多いのではないかな。
才能があるから始めるのではない。始めて、続けて、磨いていくうちに、それが才能と呼ばれるものになっていく。
そう考えると、成功者が「自分には才能があった」と語ることにも、どこか結果論的な部分がある。
勝ったから才能があった。
評価されたから向いていた。
成功したから正しい道だった。
でも成功する前の段階では、本人にもそれが才能なのかどうかは分からない。
反対に、「自分には才能がなかった」という言葉も、同じように結果論でしかない。
うまくいかなかった理由は、努力不足だけではない。始めた時期、置かれた環境、指導者との相性、経済状況、健康状態など、さまざまな要因が絡んでいる。
それらをすべてまとめて「才能がなかった」の一言で終わらせてしまえば、話は簡単になる。
だからこそ、「才能」という言葉は便利だ。
成功者を説明するためにも使えるし、自分が諦める理由にも使える。自分ではどうにもならない運命のようなものにしてしまえば、これ以上傷つかずに済むからだ。
けれど、本当に才能があるかどうかは、簡単には判断できない。
少なくとも、少し取り組んで結果が出なかっただけで、「才能がない」と決めるのは早すぎる。
才能は、見つけるものでもあり、磨くものでもあり、続けることで後から形になっていくものでもある。
もちろん、努力すれば誰もが世界一になれるわけではない。努力だけでは越えられない差もある。それでも、まだ十分に取り組んでいない段階で「才能がない」と結論づける必要はないと思う。
才能があるから続けられるのではなく、続けたもののなかから才能が見つかる。
そして「運」もまた、才能とよく似ている。
「あの人は運がよかった」「自分には運がなかった」と言うことはできる。だが実際には、運と呼ばれる出来事が起きたとき、それをつかめる場所にいたか、準備ができていたかという問題もある。
才能も運も、結果が出た後から説明するための言葉になりやすい。
だから僕は、「才能がなかった」と言い切る前に、もう少しだけ考えたい。
本当に才能がなかったのか。
それとも、まだ見つけられていないだけなのか。
磨くほど続けていなかっただけなのか。
才能が表に出る環境にいなかっただけなのか。
夢を諦める理由として、「才能」はあまりにも便利すぎる。
少なくとも、自分から可能性を閉じるための魔法の言葉にはしたくない。